2020年10月10日
はじめに
ライフワークとして続けてきた松浦氏の研究?ですが、以前作成していたHPも設定が不明となり、たまーに別のblogで松浦党ネタを書いてはいたのですが、blog自体の更新もしない状況となっていました。
ただ、今までの記事を眠らせておくのももったいないと思っていましたが、単身赴任となり少し時間ができたので、このblogに集約しようと思っています。
まあ、放置し続けたHPを見てみると掲示板にいくつか書き込みもあったので、需要は0ではないかなと。限りなくゼロに近い数字かもしれませんが。
まあそれとすでに40歳を超え、人生何があるかわからないので、せめてもの足跡を兼ねて。
松浦氏は全国的に見ればマイナーではありますが、調べてみると非常に面白い歴史を持っています。
長崎という土地自体が京都や近畿のように古くから栄えた場所ではないので、市民の方々もあまり歴史に興味がない方も多いと思うので、まあ、そんな地元の方の何人かでも興味を持っていただけたらと思います。
ただ、今までの記事を眠らせておくのももったいないと思っていましたが、単身赴任となり少し時間ができたので、このblogに集約しようと思っています。
まあ、放置し続けたHPを見てみると掲示板にいくつか書き込みもあったので、需要は0ではないかなと。限りなくゼロに近い数字かもしれませんが。
まあそれとすでに40歳を超え、人生何があるかわからないので、せめてもの足跡を兼ねて。
松浦氏は全国的に見ればマイナーではありますが、調べてみると非常に面白い歴史を持っています。
長崎という土地自体が京都や近畿のように古くから栄えた場所ではないので、市民の方々もあまり歴史に興味がない方も多いと思うので、まあ、そんな地元の方の何人かでも興味を持っていただけたらと思います。
namo666 at 13:10|Permalink│Comments(0)
2020年02月28日
「亭主の好きな赤烏帽子」松浦義について
平戸松浦氏、平戸藩。そして幕末まで残った肥前松浦氏。
ほんの小さな小領主だった平戸松浦氏の飛躍のきっかけを作った松浦義ですが、あまり知られることはありません。
室町中期に活躍したこの武将について改めて紹介したいと思います。
室町時代というと応仁の乱、戦国時代等に代表される「乱世の時代」が連想されると思います。
中央の争いが地方に波及し、地方でも権力を巡って多くの争いが発生しました。
松浦義は、平穏だった肥前松浦党の勢力において、その乱世の時代に最も早く反応し地方の乱世の幕を上げた武将と言えます。
「平戸松浦氏」について
松浦義及びその勢力については、「平戸松浦氏」と呼ばれます。
松浦党の中で松浦氏を名乗っていますが、宗家ではありません。
宗家は御厨(現在の長崎県松浦市)に勢力を持ち代々丹後守を名乗っていました。
これに比べ平戸松浦氏は元々五島の一部を治めていましたが室町初期に平戸に渡り、平戸島北部の一部に勢力を持っていました。
まあ、そもそも大きくない平戸島の北部の一部ですから、その勢力の小ささも推して知るべき程度のものです。
「松浦義の上洛」
物語は松浦義が官位を得るために京都に向かうことから始まります。
そもそも小領主である平戸松浦氏。領地も小さく官位もなく、生き残りすら不明な時代。
やけっぱちになったのか、単に京を見たかっただけなのか動機はわかりませんが、当時の政治の中心地でもある京、花の御所へ向かいます
さて、永享七年(1435)京の都に着いた松浦義。
早速花の御所に官位の取得を申し出ますが、なかなか官位は得られません。
一度チャンスが到来しますが、先祖の残した功績を問われたものの回答に詰まり官位を得ることが出来ませんでした。
しかしそれでも諦めきれず、一年二年と月は過ぎ去ります。
そこで松浦義は最後の賭けとばかりに勝負に出ます。
時に永享九年(1437)3月のことです。
よく時代劇で貴族が頭にかぶっている「烏帽子」があると思いますが、その烏帽子を真っ赤に染め、その姿で御所に向かったのです。
さすがの京の人々もびっくり。御所で仕官を待つ松浦義の周りに物珍しそうに見る人だかりが出来ます。
その様子を御所から 一人見守っている人物がいました。
その名は時の将軍足利義教。
将軍の権威を取り戻すため強権を発動、実権を握り恐怖政治を敷きましたが、最後は暗殺されてしまう足利6代将軍です。
当時の足利義教は、 管領や有力大名家に奪われた実権を取り返すために様々な努力を行っていました。
有力大名家以外にも人材を求め、将軍家の為の子飼いの勢力を作ろうとしていました。
そんな義教の思いを知ってか知らずか御所に赤い烏帽子をかぶった異形の人、松浦義が現れたのです。
足利義教はこの松浦義に非常に興味を持ちます。そして、家臣に松浦義を呼び出すよう命じると瞬く間に採用する事に。
意外な方法ではありましたが、とうとう松浦義の願いである仕官が叶ったのです。
足利義教は非常にこの松浦義を気に入り、鞍覆・白傘袋・錦の半袴等を許し、さらに平戸松浦氏の飛躍の基礎となった三つのものを与えます。
「将軍義教の褒美」について
一つは官位。
これはそもそも、 松浦義が上洛の目的にしてきたものです。
ちなみに、宗家の松浦氏は丹後守を名乗っていますが、松浦義が与えられたのは肥前守。
たかだか地方の分家である小領主としては破格ともいえる官位だと思います。
そして、2つ目は肖像画。
現在に至るまで有名な戦国大名(武田信玄や上杉謙信等)の肖像画が残っていますがいずれも室町時代後期(16世紀)から戦国時代に描かれたものです。
平戸にある(財)松浦資料博物館に保存されている松浦義の肖像画には足利義教の花押と「永享十年1438年、孟夏中旬」とも記されており、他の武将に比べてもかなり古いものです。
15世紀前半に書かれた武将の肖像画は全国的に見ても少なく、あっても将軍家周辺の人物が残る程度のもので、九州では最も古い武将の肖像画と言われています。
その肖像画には松浦義のトレードマークと言うべき赤い烏帽子が書かれており、あえてその姿を描かせた義則の寵愛ぶりがその肖像画からも図り知れると思います。
そして三つめとして勘合貿易の許可状です。
足利義教は三代将軍足利義満を目指しており、勘合貿易も当時復活させようとしていました。
貿易の許可が正式に認められたのは義教の死後にはなりましたが、この勘合貿易の許可により、 当時密貿易を行っていた松浦党の諸氏に食い込む事に成功。中国、朝鮮に対する貿易活発化させることになります。
逆に行えば、これ以前の平戸松浦氏は松浦党が行っている密貿易にすら加われないほどの勢力だったとも言えます。
3 その後の平戸松浦氏
日本の西の端の小領主でありながら義教から三つの力を得た松浦義は、特に中国、朝鮮との貿易などを通し力をつけ始め、松浦党内でも重きを置かれるようになり、平戸島内において他の領主に対して押領を行い実質的な領地の拡大を行うなど平戸松浦氏の基礎を作り上げることに成功します。
松浦義の無謀とも思える思われる上洛、そして義教との偶然の出会い。
その事が明治まで続く肥前平戸藩そして悲劇の隠れキリシタン また、現在の皇室まで続く松浦氏の歴史を新たに築くことになるのです。
ほんの小さな小領主だった平戸松浦氏の飛躍のきっかけを作った松浦義ですが、あまり知られることはありません。
室町中期に活躍したこの武将について改めて紹介したいと思います。
室町時代というと応仁の乱、戦国時代等に代表される「乱世の時代」が連想されると思います。
中央の争いが地方に波及し、地方でも権力を巡って多くの争いが発生しました。
松浦義は、平穏だった肥前松浦党の勢力において、その乱世の時代に最も早く反応し地方の乱世の幕を上げた武将と言えます。
「平戸松浦氏」について
松浦義及びその勢力については、「平戸松浦氏」と呼ばれます。
松浦党の中で松浦氏を名乗っていますが、宗家ではありません。
宗家は御厨(現在の長崎県松浦市)に勢力を持ち代々丹後守を名乗っていました。
これに比べ平戸松浦氏は元々五島の一部を治めていましたが室町初期に平戸に渡り、平戸島北部の一部に勢力を持っていました。
まあ、そもそも大きくない平戸島の北部の一部ですから、その勢力の小ささも推して知るべき程度のものです。
「松浦義の上洛」
物語は松浦義が官位を得るために京都に向かうことから始まります。
そもそも小領主である平戸松浦氏。領地も小さく官位もなく、生き残りすら不明な時代。
やけっぱちになったのか、単に京を見たかっただけなのか動機はわかりませんが、当時の政治の中心地でもある京、花の御所へ向かいます
さて、永享七年(1435)京の都に着いた松浦義。
早速花の御所に官位の取得を申し出ますが、なかなか官位は得られません。
一度チャンスが到来しますが、先祖の残した功績を問われたものの回答に詰まり官位を得ることが出来ませんでした。
しかしそれでも諦めきれず、一年二年と月は過ぎ去ります。
そこで松浦義は最後の賭けとばかりに勝負に出ます。
時に永享九年(1437)3月のことです。
よく時代劇で貴族が頭にかぶっている「烏帽子」があると思いますが、その烏帽子を真っ赤に染め、その姿で御所に向かったのです。
さすがの京の人々もびっくり。御所で仕官を待つ松浦義の周りに物珍しそうに見る人だかりが出来ます。
その様子を御所から 一人見守っている人物がいました。
その名は時の将軍足利義教。
将軍の権威を取り戻すため強権を発動、実権を握り恐怖政治を敷きましたが、最後は暗殺されてしまう足利6代将軍です。
当時の足利義教は、 管領や有力大名家に奪われた実権を取り返すために様々な努力を行っていました。
有力大名家以外にも人材を求め、将軍家の為の子飼いの勢力を作ろうとしていました。
そんな義教の思いを知ってか知らずか御所に赤い烏帽子をかぶった異形の人、松浦義が現れたのです。
足利義教はこの松浦義に非常に興味を持ちます。そして、家臣に松浦義を呼び出すよう命じると瞬く間に採用する事に。
意外な方法ではありましたが、とうとう松浦義の願いである仕官が叶ったのです。
足利義教は非常にこの松浦義を気に入り、鞍覆・白傘袋・錦の半袴等を許し、さらに平戸松浦氏の飛躍の基礎となった三つのものを与えます。
「将軍義教の褒美」について
一つは官位。
これはそもそも、 松浦義が上洛の目的にしてきたものです。
ちなみに、宗家の松浦氏は丹後守を名乗っていますが、松浦義が与えられたのは肥前守。
たかだか地方の分家である小領主としては破格ともいえる官位だと思います。
そして、2つ目は肖像画。
現在に至るまで有名な戦国大名(武田信玄や上杉謙信等)の肖像画が残っていますがいずれも室町時代後期(16世紀)から戦国時代に描かれたものです。
平戸にある(財)松浦資料博物館に保存されている松浦義の肖像画には足利義教の花押と「永享十年1438年、孟夏中旬」とも記されており、他の武将に比べてもかなり古いものです。
15世紀前半に書かれた武将の肖像画は全国的に見ても少なく、あっても将軍家周辺の人物が残る程度のもので、九州では最も古い武将の肖像画と言われています。
その肖像画には松浦義のトレードマークと言うべき赤い烏帽子が書かれており、あえてその姿を描かせた義則の寵愛ぶりがその肖像画からも図り知れると思います。
そして三つめとして勘合貿易の許可状です。
足利義教は三代将軍足利義満を目指しており、勘合貿易も当時復活させようとしていました。
貿易の許可が正式に認められたのは義教の死後にはなりましたが、この勘合貿易の許可により、 当時密貿易を行っていた松浦党の諸氏に食い込む事に成功。中国、朝鮮に対する貿易活発化させることになります。
逆に行えば、これ以前の平戸松浦氏は松浦党が行っている密貿易にすら加われないほどの勢力だったとも言えます。
3 その後の平戸松浦氏
日本の西の端の小領主でありながら義教から三つの力を得た松浦義は、特に中国、朝鮮との貿易などを通し力をつけ始め、松浦党内でも重きを置かれるようになり、平戸島内において他の領主に対して押領を行い実質的な領地の拡大を行うなど平戸松浦氏の基礎を作り上げることに成功します。
松浦義の無謀とも思える思われる上洛、そして義教との偶然の出会い。
その事が明治まで続く肥前平戸藩そして悲劇の隠れキリシタン また、現在の皇室まで続く松浦氏の歴史を新たに築くことになるのです。
2019年10月27日
松浦定
松浦丹後守定(1571~1593)
松浦丹後守九郎親の子。 幼名源三郎。九郎親の死に伴って、5歳で家督を継ぐ。
父の跡を継ぎ相神浦飯盛山城に入り、天正十五年(1587)17歳の時豊臣秀吉の島津征伐にも従軍。
その後三年間にわたり、相神浦家の人質として堺に。その時に同じく秋月家も堺に人質を出しており、その秋月種実の娘を妻に迎えている。
(竜造寺家に臣従した際に、秋月家とのつながりがあったものと思われる。)
その際に付き人として秋月家より泥谷刑部、泥谷孫兵衛が相神浦に入る。
(定、正の死後?松浦氏に仕える。秋月家の高鍋転封の為も?)
(竜造寺家に臣従した際に、秋月家とのつながりがあったものと思われる。)
その際に付き人として秋月家より泥谷刑部、泥谷孫兵衛が相神浦に入る。
(定、正の死後?松浦氏に仕える。秋月家の高鍋転封の為も?)
朝鮮の役では、当主松浦鎮信、松浦久信、松浦信実、日高喜、志佐純高らと共に従軍。
鎮信の兄弟はすでに惟明、親も亡く、一門衆として期待がかかっていたのがわかる。
しかし、文禄二年(1593年)正月7日 平壌で戦死。享年23歳
これにより、相神浦松浦家は実質滅亡。
子が二人いたが、宗家ではなく今福松浦家として、後年旗本となり明治まで残る。
妻は秋月種実の娘
弟 忠(大野家に養子となる。)
子供
男 正(その子信貞より今福松浦家となりその後旗本となる。旗本勘定奉行)
女 志佐純高の妻
文禄2年正月、平壌において合戦し時、鎮信の陣中破れたりと聞き、法印破られれば猶予すべきに非ずと馬を進むるに、馬廻りの若党、今暫しと止めるを早り、雄の若武者なれば、鎧のはなにて蹴散らしつつ、3千余の敵中に打って入り、風に木の葉の散るごとく、西に東に追っかけ突き崩す、扨って元の陣に駆け戻り、馬に息を入れしを見て、天晴無叟の勇士やと敵も味方も褒め称えたり、暫しして又も馬を進めるを必死の覚悟と見てとりし、部下の郎党、四,五十騎、浦太郎、同内膳、川窪与右衛門、同源五郎、大曲藤五郎、山口藤右衛門、鴨川甚四郎を初とし我先にと打ち続き、縦横無尽に敵を切り立て主従同じ枕に討ち死にす。
正月七日、行年二十三 相浦財津に葬る
森本 一房
森本 一房(もりもと かずふさ ? - 1674年5月3日(延宝2年3月28日))
加藤清正家臣、森本儀太夫一久の二男。平戸藩藩士。右近太夫(うこんだゆう)と名乗る。
加藤清正家臣、森本儀太夫一久の二男。平戸藩藩士。右近太夫(うこんだゆう)と名乗る。
主君清正が死し、父儀太夫も後を追うように死した後、加藤忠広の下で混乱する家臣団に嫌気がさして肥前の松浦氏に仕えた。
namo666 at 01:35|Permalink│Comments(0)